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犬のストレスフリー生活ガイド~「マズローの欲求階層」を足がかりに

 人間の基本的な願望やニーズを表す「マズローの欲求階層」を犬向けにアレンジすると、犬が求めているものが明確化して福祉の向上につながります。

マズローの欲求階層・犬版

 マズローの欲求階層(ニーズ・ヒエラルキー)とは人間の欲求や動機づけを理解するための土台として使用される心理学上の概念です。いくつかのパターンがありますがよく目にするのは5階層に区分したタイプで、「生理的欲求」「安全の欲求」「所属と愛の欲求」「承認(尊敬)の欲求」「自己実現の欲求」からなります。 マズローの欲求階層(5階層モデル)  この欲求階層は動物の基本的なニーズを理解したり説明する際に便宜的に応用されてきましたが、大なり小なり擬人化や偏った主観が含まれており、エビデンスベースとは言い難い側面を含んでいました。
 今回の調査を行ったのはオランダにあるユトレヒト大学獣医学部のチーム。犬にも応用できる欲求階層を明確化するため、学術文献で明言されている37のニーズをピックアップすると同時に、暫定的に組み上げた「犬の欲求階層」を専門家グループにチェックしてもらい、デルファイ法を用いて可能な限り洗練しました。デルファイ法(Delphi method)とは専門家グループが持つ意見や経験を集約するため、特定テーマに関し反復アンケートを行って徐々に洗練していく方法のことです。
 その結果、「5階層>16のニーズグループ>42の特定ニーズ」から構成されるモデルが出来上がったと言います。具体的な内容は以下です。

生理的ニーズ(必須)

生命活動を継続するために必要な生理学的欲求を満たすこと
  • 口渇の充足いつでも新鮮な水にアクセスできること
  • 空腹の充足いつでも十分な量の上質な食餌にアクセスできること/食餌はおいしく苦労せず食べられる状態にあること/犬の年齢、体重、健康状態に合わせた適切でバランスの取れたマクロ及びミクロ栄養素が満たされていること
  • 身体的運動の提供犬の年齢、犬種や身体的な特徴、健康状態に合わせた身体的な運動が適切な量で常に提供されること
  • シェルターやハウスの提供雪、雨、暑熱、寒冷等の不快な屋外環境から保護する、隙間風や日照りのないシェルターにいつでもアクセスできること/日常的に日光や新鮮な空気に接することができること/シェルターのサイズは犬の体に合っており、種固有の行動(寝そべり・ストレッチ・歩行 etc)を発現するだけの余裕があること
  • 医療の提供怪我を負った直後、もしくは病気の兆候が見られたらすぐに医療が提供されること/病気や怪我に対する治療に対する獣医師主導のフォローが行われること
  • 休める場所の提供邪魔が入らず常に静かで穏やかな場所にいつでもアクセスできること

安全性のニーズ(必須)

自分を取り巻く環境が安全、安定で十分予見可能であると実感するニーズ
  • 自分の意志で選択環境が予見可能で制御可能な状態にあること
  • 安全身の回りが安全であると常に実感できること
  • 排泄のための適切な場所安全かつ衛生的で、犬が容易に排泄場所と認識できる空間にいつでもアクセスできること/排泄場所は犬に痛み、違和感、不具合を感じさせないこと
  • 予防的医療介入犬の年齢、生活環境、個々の健康上のニーズに合わせ、獣医師が主導して定期的に医療介入(ワクチン・寄生虫予防・臓器機能のモニタリング etc)すること
  • グルーミングやメンテナンス犬の年齢や身体形状的な特徴、健康状態に合わせて入浴、トリミング、ブラッシング、歯磨き、爪切り、耳掃除を定期的に行うこと
  • 清潔で衛生的な生活環境見えない場所まで含め常に清潔で衛生的な室内環境もしくは屋外環境を提供すること
  • 寝床や休息に適した素材犬の年齢、大きさ、健康状態、行動特性に合わせた寝床や寝具にいつでもアクセスできること/寝床や寝具は清潔でよく乾いており安全(誤飲の危険性がない)であること

社会的ニーズ(必須)

人間や同種動物からの孤独や孤立を避けるニーズ
  • 社会的な接触とサポート犬の年齢、行動特性に合わせた人間による社会的な接触を常に提供すること/他の犬と常に社会的接触ができること/犬の年齢、犬種、健康状態、行動特性を考慮し、場合によっては他の犬と同居させること

統合性のニーズ(推奨)

環境の中において適切な手段やスキルを保ち、行動的かつ情動的にサポートされるニーズ
  • ご褒美ベースのトレーニング適切な資格や素養を持った人間によって監督された行動サポートを提供すること 行動ニーズや情動ニーズを満たすため犬の年齢、犬種、健康状態に合わせた行動サポートを適宜提供すること

認知的ニーズ(推奨)

退屈や欲求不満を解消するため、認知機能を維持したり促進するニーズ
  • 認知的刺激を与える新しいスキルなど認知機能に対する刺激を常に提供すること/刺激は飽きがこないよう多様性をもたせること/刺激のタイプや量は犬の年齢、犬種、健康状態、行動特性に合わせること
The Adaptation of Maslow’s Hierarchy of Needs to the Hierarchy of Dogs’ Needs Using a Consensus Building Approach
Animals 2023, Karen E. Griffin, Saskia S. Arndt, Claudia M. Vinke, DOI:10.3390/ani13162620

人版と犬版の違い

 デルファイ法で概念モデルの洗練を行いましたが専門家たちの離脱率が高く、参加人数は回を追うごとに9名→4名→2名と目減りしていきました。最終的なコンセンサスがたった2人というのは何とも心もとないですが、まだ暫定版ということで今後のブラッシュアップに期待しましょう。
 人間の心理学で用いられるマズローの欲求階層と、当調査で組み上げられた犬の欲求階層を比較した場合、「生理的欲求(ニーズ)」と「安全の欲求(ニーズ)」を除いた3階層において用語の置き換えが行われました。具体的には以下です。
人 vs 犬
  • 所属と愛情ニーズ→社会的ニーズ人間における「所属と愛情ニーズ」は誰かを愛し誰かに愛されるニーズ、どこかに所属して受け入れられるニーズ、寂しさや排除を避けるニーズなどと解釈されます。一方、犬において所属欲求の有無を実証することが難しいため、より広義の「社会的」という言葉に集約されました。
  • 自尊ニーズ→統合性ニーズ「自尊ニーズ」は他人から尊敬されたいとか、人の注目を得て承認されたいという欲求のことです。犬に自尊心やプライドというものがあると想定するのはやや擬人化が過ぎるため、当調査内では「統合性(Integrity)」という言葉に集約されました。「Integrity」には複数の意味があるため邦訳が難しいですが、不完全な状態をなるべく完全な状態に統合するため、人間からサポートを受けるニーズという意味合いです。主として人と円満な共同生活を送るための行動修正を指しています。
  • 自己実現ニーズ→認知的ニーズ「自己実現ニーズ」は自分なりのアイデンティティを持ち、現実と理想をすり合わせる欲求のことです。犬にアイデンティティの概念を想定するのはさすがに飛躍しすぎですので、柔軟に「生命に直接的な影響はないものの、あれば生活がより豊かになり、感情がポジティブになるもの」という意味に解釈すると、犬にとってそれは認知機能への刺激となります。具体的には五感に働きかける遊びや作業のほか、新しいスキルやトリックを覚えるといったことが含まれます。

犬の欲求階層の実用性

 犬の福祉(動物がポジティブな感情を抱く状況)を測る際はよく「5つの自由」という基準が引き合いに出されます。また「5つのドメイン」と合わせた「DAWCon(Dynamic Animal Welfare Concept)」という概念も提唱されています。
DAWCon
  • 5つの自由・飢えと渇きからの自由
    ・不快からの自由
    ・痛み、怪我、疾病からの自由
    ・正常な行動を表出する自由
    ・恐れと苦悩からの自由
  • 5つのドメイン・栄養
    ・環境
    ・健康
    ・行動的ふれあい
    ・心的状態や経験
 上記した概念は直感的に理解しやすいものですが、言葉の意味が広すぎるため具体性に欠けるという難点を抱えています。当調査で提唱された「犬の欲求階層」はDAWConの概念をより細分化したものになりますので、犬の福祉状態を客観化するときの指標や、飼い主に飼育法をアドバイスするときの指針として実用性が期待できます。
 例えば噛み癖のある犬が訓練士に預けられ(社会からの孤独・孤立)、不明瞭な指示語に困惑し(予見・制御不能性)、期待されている行動を取れなかったら鼻面を殴られる(安全性の剥奪)といった日常を送っている場合、福祉が複数の階層に渡って著しく損なわれていると判断することができます。 犬の欲求