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ヤコブソン(鋤鼻)器官の異常と犬の問題行動~フェロモンがもつ関係潤滑剤としての役割

 鼻腔内にありフェロモンの受容に関わっているヤコブソン器官(鋤鼻器官)。この器官に異常があると、コミュニケーションの潤滑剤としてのフェロモンが機能しなくなり、さまざまな問題行動につながる可能性が示されました。

珍しい疾患「鋤鼻器官無形成症」

 ヤコブソン器官とは動物の鼻の中にある感覚器の一種。鋤鼻器官(じょびきかん, vomeronasal organ, VNO)とも呼ばれます。人間においてはとっくの昔に退化して痕跡になっていますが、コミュニケーションに嗅覚を用いる動物ではよく保存されており、主としてフェロモン(情報を含む微量分子)の受容に関わっています。 犬のヤコブソン器官(鋤鼻器官)断面解剖図  今回の報告を行ったのはスペインにあるサンティアゴ・デ・コンポステーラ大学獣医学部のチーム。従来的なしつけ方法(条件付け)に思ったように反応しない犬を身体的に精査したところ、「鋤鼻器官無形成」という極めて珍しい先天疾患であることが判明しました。このことから調査チームは、鋤鼻器官の欠損によってフェロモンの知覚が遮断され、結果として問題行動の遠因になったのではないかと推論するに至っています。以下は具体的な症例です。

鋤鼻器官のない犬「アチョ」

 広い敷地の中にある田舎の邸宅で産まれた未去勢オス犬の「アチョ(Hacho)」は、生まれつき二分鼻と口蓋裂を抱えていた。生後3ヶ月齢までの社会化期では多様な犬と接して育てられ、またトラウマ経験がなかったものの、見知らぬ犬と出会うやいなや性別を問わず攻撃性を示すという問題行動を示すようになった。 先天性の二分鼻と口蓋裂を持って産まれた犬「アチョ」  生後4ヶ月齢のときに譲渡され、田舎から大都会の賃貸集合住宅に移った後は、見知らぬ人が近づくと逃げ出そうとする、触ろうとした手に噛みつこうとする、車・バイク・スクーター・自転車といったものに攻撃を仕掛ける、街中で落ち着かない様子で行ったり来たりする、大きな音や新しいものに対して恐怖心を示す、夜になっても落ち着かず眠ろうとしないなどの問題行動が顕著となった。
 身体検査では軽度のるいそう(やせ体型)と軽度の股異形成が確認され、7ヶ月齢の時に歯肉切除、切歯2本の抜歯、口蓋形成術が施された。犬の問題行動カウンセリングでは「刺激馴化不足による見知らぬ人に対する恐怖関連性の攻撃性」との仮診断が下され、行動修正プランによって幾分かの改善が見られた。
 1歳の時、再び小さな町に引っ越したのを機に不安が増強。うなる、ほえる、他の犬の尿臭を嗅いだ後で虚空に吠えたり噛みついたりする等の問題行動が現れるようになり、相手のステータスを無視した衝動的な攻撃性も再発した。また奇妙なことに、発情期のメスに対して何の反応も示さなかった。
 薬理学的に選択的セロトニン再取り込み阻害薬が処方されたほか、行動学的に問題行動修正プロトコルと環境調整が指示された。これらには静かなエリアを散歩する、口輪をはめる、しつけに際して嫌悪刺激を用いない、環境エンリッチメントを充実させる、ノーズワークや知育玩具を用いる、見知らぬ犬に対する拮抗条件付けと系統的脱感作法を行うなどが含まれたが決して覚えが良いとはいえず、路上で見知らぬ犬を見たり尿臭を嗅いだ際は相変わらず抑えの効かない衝動性を示した。
 従来的なプロトコルに反応しないことを不審に思った診察チームは器質的な原因を疑い、CTとMRIによる精密検査を行った。その結果、顔面頭蓋では吻側中間縫線、鋤鼻器官の欠損、また頭蓋内では側脳室間にある透明中隔の完全な欠損が確認された。この器質的な所見が確認された時点で、刺激馴化不足が原因ではなく「先天的な鋤鼻器官および透明中隔の欠損による見知らぬ犬への攻撃性」と診断が改められた。 透明中隔欠損と健常犬の断面比較写真  行動修正プランは奏功せずむしろ悪化を示したが、薬剤をフルオキセチンからパロキセチンに切り替えたところ、見知らぬ人に対する不安や攻撃性に改善が見られた。投薬に反応しなかった夜間における過活動性に関しては、トラゾドンの容量を増やしたところ寝付きが良くなり、治療開始から1年目の時点では体重も普通(BCS5/9)になった。
 ホルモン剤の試験投与を行ったところ、性的二型行動は減ったものの人や騒音への恐怖は逆に増悪したため去勢手術は見送られた。治療開始から1年半後、薬理学的アプローチと行動学的アプローチが奏効してか、他の犬が積極的にコンタクトを取らない限り無視できるまでになった。
Behavioural disorder in a dog with congenital agenesis of the vomeronasal organ and the septum pellucidum
Veterinary Record Case Reports(2023), Susana Muniz-de Miguel, Jose Daniel Barreiro-Vazquez, et al., DOI:10.1002/vrc2.571

鋤鼻器官の異常と問題行動

 鼻腔内における鋤鼻器官が欠損した時にてげっ歯類で見られる症状、および脳内における透明中隔が欠損した時に人間で見られる症状が、今回の報告で登場した「アチョ」の症状に酷似していることから、調査チームはこれら2つの器官が問題行動の発現に深く関わっているのではないかと推測しています。

鋤鼻器官の異常

 鋤鼻器官を有する動物では、この器官が機能不全に陥ったり欠損したりするとさまざまな異常行動につながることが確認されています。
 例えば鋤鼻器官を失ったオスのマウスは発情期にあるメスの尿臭に対して興味を失うといいます。また鋤鼻器官を失ったメスのウサギは交尾自体に興味を失い、黄体形成ホルモンレベルの上下動がなくなり、排卵が止まって妊娠しなくなるとされています。さらに猫や豚においては鋤鼻器内の感覚上皮に炎症が起こると同種間の攻撃性が高まると報告されています。
 一方、イエイヌを含めたイヌ科動物において鋤鼻器官がどのような役割を果てしているのかは、実はよくわかっていません。鋤鼻器官自体は鼻中隔底部の両側に鋤骨と直結する形で存在していることが確認されています。器官内には感覚上皮があり、副嗅球と神経的に連絡していることから、鼻口蓋管を経由してフェロモンが鋤鼻管に入ることは確かなようです。
 今回の症例報告に登場したアチョの例から考察すると、「発情期のメスに興味を示さない」「抑制の効かない衝動的な攻撃性」あたりの異常行動に鋤鼻器官が関わっているものと推測されます。

透明中隔の異常

 透明中隔というあまり聞き慣れない脳の部位が障害を受けると、さまざまな異常行動につながることが確認されています。
 例えばラット、ハムスター、マウス、猫、サルでは攻撃性の亢進や制御の効かない衝動行動につながるとされています。また人間においては透明中隔の異常と学習障害や精神発達の遅延、透明中隔に挟まれた透明中隔腔の異常と反社会的パーソナリティ障害やサイコパス気質が関係していると推測されています。
 そもそも透明中隔は脳梁上部(両側側脳室を隔てる板状構造)にあり、視床下部自律神経系を通して内臓の情報を海馬、扁桃体、松果体、脳幹網様体などに伝えています。関係している生理機能は睡眠覚醒サイクル、環境に対する情動反応、注意力や活動性、セルフメンテナンス、摂食、性行動、逃走・闘争反応など多様です。
 今回の症例報告に登場したアチョの例から考察すると、「物覚えが悪い」「夜間不眠」「過活動性」あたりの異常行動に透明中隔が関わっているものと推測されます。

鼻炎に注意

 症例数が少なく因果関係が証明されているわけではありませんが、鋤鼻器官を有する他の動物の先例から考えると、この器官の異常が様々な問題行動の原因になり得る可能性は十分にあるでしょう。
 飼い主として注意できることといえば、鼻腔内に発生した炎症が鋤鼻器官にまで波及しないよう、呼吸器系の疾患に気をつけるということぐらいでしょうか。犬にも花粉症はありますので、アレルギー性疾患にも気を配るようにします。問題行動に明白な季節性が確認されるような場合は、ひょっとするとアレルゲンの季節変動に連動した結果なのかもしれません。
 ちなみにスペイン原産犬種「Pachon Navarro」とボリビア原産犬種「Andean Tiger Hound」では、なぜか二分鼻が犬種標準として規定されています。 二分鼻を特徴とする2犬種
この先天的な形成異常が鋤鼻器官や透明中隔の欠損に連動しているかどうかはわかりませんが、もしあるのなら先天疾患の固定になりますので、即刻虐待繁殖を止める必要があるでしょう。