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犬に低血糖は探知できる?~糖尿病患者に寄り添う犬たちの能力に迫る

 血液中のエネルギーである糖を、細胞の中にうまく取り込めない病気を「糖尿病」といいます。病気に対する自己管理ができていないと、時に「低血糖発作」(ていけっとうほっさ)といって、脳内のエネルギーが急になくなり、意識を失うなど発作的な症状に陥ることがあり、大変危険です。近年、糖尿病患者の低血糖状態をモニターしてくれる低血糖探知犬の存在が、徐々に脚光を浴び始めています。

低血糖探知犬とは?

 糖尿病患者の発する何らかのシグナルを読み取り、低血糖発作を予知してくれる犬のことを低血糖探知犬(ていけっとうたんちけん)と呼びます。そもそも 「犬は飼い主の低血糖を嗅ぎ分けることができるのかもしれない」という可能性が最初に公的に示されたのは、1992年に発行されたイギリスの糖尿病専門誌「Diabetic Medicine」だと言われています(1992 vol.9 "Type 1 diabetes and their pets.")。掲載された記事の中では、犬のみならず猫やウサギ、鳥などのペットのうち、なんと3分の1までもが、飼い主の低血糖発作に際して何らかの異常な行動を示したとのこと。
 以下では人間の低血糖を探知する「低血糖探知犬」が生まれるまでの経緯を、おおまかにご紹介します。なお、本文中のリンクは全て別ウィンドウで開きます。また文中でよく使われる専門用語は以下です。
専門用語解説
  • 糖尿病糖尿病(とうにょうびょう)とは、血液中のエネルギー源である「血糖」が細胞内に取り込まれず、血液内にとどまってしまう病気。放置すると目の網膜や腎臓などに合併症をきたす。
  • インシュリンインシュリンとは、血液中のエネルギー源である「血糖」を細胞内に導くホルモンの一種で、すい臓が作り出す。
  • 血糖値血糖値(けっとうち)とは、血液中に存在している糖分(グルコース)の値。空腹時で80~100mg/dlが正常値とされる。これより高い場合を「高血糖」、低い場合を「低血糖」という。
  • I型糖尿病I型糖尿病とは、すい臓内の細胞が死滅し、インスリンの分泌が極度に低下するか、ほとんど分泌されない糖尿病。
  • II型糖尿病II型糖尿病とは、インスリンの分泌低下、もしくはインスリンに対する細胞の感受性が低下した糖尿病。
  • 低血糖発作低血糖発作(ていけっとうほっさ)とは、血液中の糖分が急激に低下した結果、脳へ行くはずのエネルギーが急に途絶え、意識障害や失神などを引き起こす発作。糖尿病患者がインスリン注射の量を間違えると起こることがある。

BMJによる低血糖探知事例

 1992年、「Diabetic Medicine」の記事が出てから長い間、ペットと低血糖の話題は医学会において忘却の彼方に葬り去られていました。しかし2000年、同じくイギリスの医学情報誌「British Medical Journal」(BMJ)に掲載された一本の記事によって復活します。
 2000年に掲載された「高貴で拒絶反応を起こさず、忍耐強くて親しみやすいアラームシステムを用いた、低血糖の非侵襲的検知方法」と題されたこの記事の中では、飼い主の低血糖を、犬が嗅覚を用いて検知したと思われる3例が具体的に紹介されています(→出典)。

ケース1

 II型糖尿病を発症し、1979年から1日2回のインスリン注射が必要となった66歳の女性は、異常な発汗、全身の倦怠感、イライラなど低血糖特有の症状が頻発していた。発作は夕方から夜にかけて起こることが多かったが、低血糖の兆候が見られたらすぐに対処していたため大事に至ることはなかった。
 ある日彼女は、9歳になる雑種犬・キャンディが、低血糖が発症する前に限って異常な行動をとることに気づく。キャンディはジャンプしたり部屋の中から走り去ったり椅子の下に隠れたりおかしな行動を見せたが、女性が炭水化物を摂取して血糖値を元に戻すと、そうした行動はぷっつりと消えた。不思議なことに、犬のこうした異常行動は、彼女が低血糖の自覚症状に気づく前に見られることだった。

ケース2

 1995年にII型糖尿病と診断された47歳の女性は、1日2回インシュリンを投与するのが日課だった。しかし彼女は、多いときは1週間で2回ほど低血糖発作に襲われ、そのたびごとに異常な発汗、けだるさ、意識混濁などの症状を経験していた。
 彼女は7歳になるメスの雑種犬スージーを飼っていたが、この犬がたびたびおかしな行動をとることに気づく。夜中に鼻先でつついて起こしたり、おやつを無視して、飼い主が外出するのを妨害するかのような行動見せることもあった。しかしいずれの場合も、彼女が炭水化物を摂取して血糖値を正常化すると、犬は落ち着きを取り戻した。思い返してみると、犬がこうした奇妙な行動をとるのは、いつも彼女が低血糖を自覚する前のことだった。

ケース3

 1970年からI型糖尿病を患っている34歳の女性は、糖尿病の合併症である糖尿病性の網膜症と腎症も併発していた。彼女は平均して週2回ほど低血糖発作を経験しており、特に寝ている間の発作は防げない状態だった。
 ある日、彼女が飼っている3歳のゴールデンレトリバー・ナットがうろうろ歩き回ったり彼女の腿に頭を押し付けてきたりと、普段は見せないようなおかしな行動をとった。またある日の夜中には、彼女が寝ている寝室のドアを引っかいたり吠えたりもした。いずれの場合も彼女の低血糖状態が緩和すると、こうした異常行動は消えた。
 これらの事例から記事を担当した医師らは、「低血糖発作が起こる前に検知した」点、および「患者が発作に気づくことのできない夜中に注意を促してくれた」点に着目し、適切に訓練すれば、犬の嗅覚が他のどんな血糖値センサーよりも正確で洗練されたセンサーになってくれるかもしれない、との見解を示しています。また糖尿病患者が犬を飼うことで、リラックスによる血圧低下効果や、散歩に連れて行くことによる運動量増加により、飼い主の健康維持に貢献してくれるだろうとも語っています。

犬の低血糖検知実験

 2000年に掲載されたBMJの記事に着想を得たオーストラリアの糖尿病専門医Alan E. Stocks氏は、自身が運営するBrisbane Clinic内の患者を対象に、独自の調査を行いました。この調査結果は2002年9月5日に開催された講演「Hypoglycaemia」(低血糖)の中で発表されています(→出典)。
 調査の対象になったのはStocks氏が運営するクリニックの受診患者・計462名。「犬を飼っているか」、「低血糖発作を起こしたとき、犬が近くにいたか」、「発作時、犬は普段と違う行動を示したか」という点をアンケート調査したところ、以下のような異常行動の例が集まります。
低血糖発作時の犬の行動
  • 服のすそを引っ張る
  • 患者の元に、家族の他のメンバーを連れてくる
  • 注意を引こうとする
  • 鼻を擦り付ける
  • なめる
  • 落ち着かずうろうろする
  • 吠える
 さらにStocks氏は、「犬は飼い主の汗のにおいに反応して低血糖を予知しているのではないか?」、と当たりをつけ、患者に協力してもらい、普通に運動した時と、インスリン注射で低血糖にして運動した時との汗のサンプルを採取しました。その汗を研究機関で分析してもらったところ、低血糖状態時の汗には、アドレナリンやドパミン、ノルアドレナリンなど各種のカテコールアミンが含まれていることが判明しました。Stocks氏はこれらのカテコールアミンが、犬を異常行動に駆り立てる原動因だと推測しています。

低血糖検知犬育成機関

 アメリカの法科学者・Mark Ruefenacht氏は2004年、「Dogs for Diabetics」(D4D)という低血糖検知犬育成機関を設立しました。氏がこの機関を設立するに至った経緯には、自分自身が犬によって命を救われたという個人的な経験が関わっているようです。
 アメリカの法科学者・Mark Ruefenacht氏はI型糖尿病患者でした。氏はボランティアでパピーウォーカーも務めていたため、1999年にニューヨークに出張した際、盲導犬候補としてトレーニングしていたベントンを同伴していました。
Mark Ruefenacht氏は自身の低血糖発作を犬が救ってくれたことを契機とし、Dogs for Diabetics(D4D)の設立を思い立ちました。  ある晩、Mark氏はチョコレートドーナツをしこたま食べたので、血糖値を下げるためにインシュリン注射を打って眠りにつきましたが、寝ている間に低血糖発作を起こしてしまいます。ところがそのとき、たまたま居合わせた犬のベントンが、朦朧(もうろう)としているMark氏をしゃかりにきなって起こしにかかったといいます。目を覚ました氏は、その後急いで血糖値を正常に戻し、何とか事なきを得ることができました。
 この出来事をきっかけにMark氏は、「トレーニング次第では、低血糖を検知できる犬を作れるかもしれない」と考えるようになります。その後、やんちゃすぎて盲導犬には向かないとされたイエローのラブラドールレトリバー・アームストロングのトレーニングを開始し、自分以外の第三者にも協力してもらった上で、アームストロングが低血糖を正確に検知できることを確認しました。
 この結果に自信を得たMark氏は2004年、「Dogs for Diabetics」(D4D)という低血糖検知犬育成機関を設立し、現在も少数ながらも検知犬を世に送り出しています。

低血糖検知犬の展望

 2008年、イギリスのチャリティー団体「Diabetes UK」からの資金提供を受け、Deborah Wells氏主導の下、クイーンズ大学ベルファストとリンカーン大学において、「犬が低血糖を検知できるかどうか?」という専門的な研究が行われています。報告によると犬の嗅覚をもってすれば、低血糖を正確に検知できるものの、犬が具体的に人体から発する何を嗅ぎ取っているのかに関しては、いまだわかっていないのが現状です。
 一方、医学的なメカニズムが解明されていないものの、「犬が低血糖発作を予知できる」という厳然たる事実に基づき、低血糖探知犬(Diabetic Alert Dogs)の育成に取り組んでいる団体が欧米各国にあります。
低血糖探知犬育成団体
  • Dogs for Diabetics(D4D)  Dogs for Diabetics(D4D)はMark Ruefenacht氏によって2004年に設立された非営利団体で、Assistance Dogs International(ADI)によって認可された唯一の低血糖探知犬養成機関です。2011年の時点で、80人以上の糖尿病患者が犬とチームを組んで暮らしており、患者のみならず、患者の家族の負担をも軽減してくれるという意味において、たいへん重宝がられています。
  • All Purpose Canines  All Purpose Caninesはもともと、自閉症を患った子供たちのためをサポートする犬を育成する機関でしたが、独自の訓練プログラムを創出して「Diabetic Alert Dogs」(糖尿病警告犬)の育成にも携わっています。
  • ALERT SERVICE DOGS  ALERT SERVICE DOGSは主にI型糖尿病を患う患者に対し、低血糖発作を予知して警告を発してくれる「Diabetic Alert Dogs」(糖尿病警告犬)を育成する機関です。85~90%の正確性で低血糖を検知する能力を合格ラインとして犬たちを訓練しています。
  • Medical Detection Dogs  Medical Detection Dogsはイギリスにあるアシスタント・ドッグ(補助犬)育成機関です。ガンのにおいを嗅ぎ分けるガン探知犬のほか、飼い主の血糖値低下を知らせる「Medical Alert Dogs」(医療警告犬)の訓練も行っています。このMedical Alert Dogsは、飼い主の低血糖を嗅覚で探知することはもちろんのこと、必要に応じて血液検査キットやグルコース(血糖値をすばやくあげる食べ物)を持ってきたり、飼い主が気を失うなど緊急の場合にはアラームボタンを押すこともできます。
 このように欧米においては低血糖探知犬の認知度が比較的高く、各種の育成機関も豊富に存在しています。
 以下でご紹介するのはオハイオ州内で2番目に認定されたという糖尿病探知犬「J-Lo」の動画です。I型糖尿病を患うエイソン君(2015年時で9歳)に24時間体制で付き添い、血糖値が上がりすぎたり下がりすぎたりシたタイミングでアラートを発するようトレーニングされています。学校側にも理解があり、教室への同伴が例外的に許可されています。 元動画は→こちら
 こうした話を聞くとついつい「犬がいればもう安心!」と思い込んでしまいますが、それは早合点です。アメリカのオレゴン健康科学大学が行った調査では、低血糖状態において犬が正しくアラートを発した確率がわずか36%だったとのデータもありますので、探知犬がいれば100%患者の安全が守られるいうわけではなく、犬とCGM(血糖値常時監視システム)を併用した二重体制で発作をモニターすることが推奨されます。 低血糖探知犬の発するアラートはあまり信頼できない  また近年は、低血糖時の呼気中で「イソプレン」(isoprene)という物質の濃度が高まる現象が確認されていますので、こうした知見を応用した低血糖感知器の開発が待たれるところです。そうすれば、低血糖発作の前兆が明白ではないI型糖尿病患者や一人暮らしの患者、あるいは夜間に発作を起こしやすい患者などの生活の質(QOL)が向上することでしょう。また探知犬と患者が四六時中一緒にいる必要性がなくなりますので、犬たちの負担も軽減すると考えられます。