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犬は恩を忘れない?

 犬の都市伝説の一つである「犬は恩を忘れない」について真偽を解説します。果たして本当なのでしょうか?それとも嘘なのでしょうか?

伝説の出どころ

 「犬は恩を忘れない」という都市伝説の出どころとしてまず真っ先に頭に思い浮かぶのは「忠犬ハチ公」です。1923年(大正12年)、秋田県の二井田村(現:大館市)で生まれた秋田犬のハチ公は、生後2ヶ月の頃、東京・豊多摩郡渋谷町(現:松涛1丁目)に暮らす大学教授・上野英三郎氏に引き取られました。ところがわずか2年後の1925年5月、上野教授が脳溢血で急逝してしまいます。その後、上野宅出入りの植木職人・小林家に引き取られたハチは、家から抜け出して渋谷駅前をうろつくようになり、教授がいつも通っていた改札口を見つめ、じっと主人の帰りを待つようになりました。小林家と渋谷駅前を往復するハチの放浪生活はその後7年間続き、1935年にハチが死んだ際は、渋谷駅で告別式が開かれ、駅や町の人々が多数参列したといいます。 渋谷駅前にたたずむ生前の八チ公  自分が受けた恩を長い間忘れず、主人に対して忠義を尽くすという「忠犬」のイメージは、このハチ公によって形成されたといっても過言ではありません。また世界を見回してみると、驚くほどたくさんの忠犬エピソードを見つけることができます。例えば以下は一例です。
世界の忠犬
  • グレイフライヤーズボビー14年間墓守をしたスコットランドの忠犬(→詳細)。
  • テオハンドラーの後を追ったイギリスの忠犬(→詳細)。
  • カネロ主人の帰りを待ち続けたスペインの忠犬(→詳細)。
  • ジョック飼い主を1年間待ち続けたポーランドの忠犬(→詳細)。
  • フィド主人を14年間待ち続けたイタリアの忠犬(→詳細)。
  • トミー主人を教会で待ち続けたイタリアの忠犬(→詳細)。
  • コンスタンティン道路脇で待ち続けたロシアの忠犬(→詳細)。
  • シェップ駅で6年間待ち続けたアメリカの忠犬(→詳細)。
  • アチ大学生を待ち続けているボリビアの忠犬(→詳細)。
  • カピタン主人の墓守をしているアルゼンチンの忠犬(→詳細)。
 「犬は恩を忘れない」という都市伝説は、上記したようなたくさんの忠犬エピソードがないまぜとなって形成されていったものと推測されます。
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伝説の検証

 動物の記憶プロセスには、情報の「入力」、「保持」、「再生」という3つの過程が含まれています。そして「再生」において回想される過去の記憶は、現在を起点としたときの時間によって数秒~数時間程度の「短期記憶」と、数日~数年程度の「長期記憶」とに分類されます。では犬の「短期記憶」と「長期記憶」は、いったいどの程度の潜在能力を秘めているのでしょうか?

犬の短期記憶能力

 「短期記憶」とは数秒~数時間という極めて短い時間だけ脳内に保持される記憶のことです。薬物や遺伝子操作を施したマウスを用いた調査から、短期記憶の形成には細胞内におけるチャネル分子やリン酸化酵素群の活性が重要であることがわかっています。この記憶の特徴は、非常に不安定で時間が経てば自然に忘れてしまうという点です。
 2015年、スウェーデン・ストックホルム大学のヨハン・リンド氏が率いるチームは、過去に行われた記憶力に関する膨大な情報を分析し、25種類の動物が持つ短期記憶の長さを比較検討しました(→出典)。その結果、ミツバチは2.4秒、チンパンジーは20秒、犬は71秒で、動物全体の平均が27秒だったといいます。こうした事実から、犬の短期記憶能力はせいぜい1分半程度であるという可能性が示されました。 短期記憶力に関し、ミツバチは2.4秒、チンパンジーは20秒、犬は71秒  一方、いくら「短期」とはいえ、もう少し持続するのではないかという可能性を示す報告もあります。2014年 、ハンガリーのアダム・ミクロシらは犬に特殊な訓練を施し、「真似してごらん」という指示の直前に見ていた行動を再現するようにしました。その後、インターバルを置いて行動を再現できるかどうかを検証したところ、1~ 1分半のインターバルはもちろんのこと、中には10分間という極めて長いインターバルを置いても、行動を再現できる犬がいたと言います(→出典)。
 こうした事実から考えると、犬の短期記憶が「71秒」というのは、あくまでも平均値であって、「それ以上長く記憶を保持しておく事は絶対に不可能」というわけでは無いようです。

犬の長期記憶能力

 「長期記憶」とは、数日~数年という極めて長い期間、脳内に保持される記憶のことです。学習直前のマウスの脳内に転写阻害剤やタンパク質合成阻害剤を投与すると長期記憶の形成が阻害されることから、この記憶にはタンパク質やRNAといった生体高分子の合成が必要であると推測されています。
 犬の長期記憶に焦点を絞った調査としては、1994年にHepperらが行ったものがあります(→出典)。彼らは母犬と子犬を対象とし、一定期間をおいた後でもお互いの存在を認識できるかどうかを検証しました。まず生後4~5.5週齢になったタイミングでテストしてみたところ、子犬は母犬と同腹の兄弟姉妹を認識でき、母犬は子犬を認識できたと言います。その後、生後8~12週齢になったタイミングで母犬と子犬とを引き離し、2歳になったとき再び引き合わせてみました。その結果、母犬と子犬はお互いの存在を覚えていることが確認されました。しかし、「一緒に暮らしている」という条件がない限り、子犬は同腹の兄弟姉妹を認識できなかったそうです。こうした事実から研究チームは、母犬と子犬はお互いの存在を少なくとも2年間は記憶していられるとの結論に至りました。また、離れていた期間は同じであるにもかかわらず、母犬は認識できて兄弟姉妹は認識できなかった点に関しては、それぞれの記憶形成に別々のメカニズムが働いているのではないかと推測しています。 母犬と子犬は、2年間離ればなれの状態でもお互いを認識できる
 上記したような犬の長期記憶に関する調査はそれほどたくさんありませんが、飼い主が報告する散発的なエピソードなら山ほどあります。古い例では、イギリスの自然科学者チャールズ・ダーウィンがの著書「人間の由来と性選択」(1871年, 第一巻, P45)の中で、犬の記憶力に関する記述を行っています(→出典)。
 私は5年と2日にわたる不在の後でわざと犬の記憶を試した。犬は寝起きする馬小屋の近くまで行くと、昔と変わらぬやり方で彼を大声で呼んでみた。すると、特に喜ぶそぶりを示すことなく、ほんの30分前に別れたばかりであるかのように私に従いすぐに後について歩き出した。
 さらに以下でご紹介するような動画も、犬の長期記憶能力を推し量る際の参考になるでしょう。長い間離れ離れになっていった兵士と飼い犬が再会した瞬間の動画ですが、数ヶ月~数年間という長いブランクがあっても飼い主の顔をすぐに認識し、喜びを体全体で現していることが分かります。
元動画は⇒こちら
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伝説の結論

 映画「南極物語」のラストシーンでは、南極大陸に置き去りにされた犬のタロとジロが、1年ぶりに再会した越冬隊員の呼びかけに応え、駆け寄っていく姿が描かれています。このシーンは映画向けに作られたフィクションかもしれませんが、YouTubeなどに投稿されている帰還兵と犬の再会シーンを見る限り、それほど誇張ではないように思われます。犬の短期記憶能力に関しては1分からせいぜい10分程度で、人間の48時間に比べるとずいぶん劣っています。しかし長期記憶能力に関しては、私たち人間と負けず劣らず優れたものを持っているのではないでしょうか。ですから「犬は恩を忘れない」という都市伝説は本当ということにしておきましょう。 映画「南極物語」のラストシーンで越冬隊員と抱き合うタロとジロ

記憶の遠隔化

 従来、記憶の中心は脳の中にある「海馬」(かいば)と呼ばれる小さな部位だと考えられてきました。しかし五感を通じて入ってくる膨大な情報を、極めて小さな部位に一任するのはいくらなんでも不自然だろうという考えから、近年は海馬の外側にある大脳皮質と呼ばれる領域も関わっているとする記憶モデルが提唱されています。 人間の脳内における海馬の位置と大きさ  このモデルによると、一旦脳内に入ってきた情報はまず海馬で処理され、その後少しずつ皮質領域に転写されていき、最終的には海馬から独立した形で記憶が保存されるとされています。このようにして貯蔵された記憶は、特に「遠隔記憶」と呼ばれ、マウスやラットでは1ヶ月程度、人間では数ヶ月から数年で形成されると想定されています。海馬が障害されると新しい事は記憶できなくなるのに、古い記憶は思い出すことができるという現象も、この記憶モデルならうまく説明ができるそうです。
 犬が飼い主の顔を何年間も覚えていたり、世話になった人を同じ場所でずっと待ち続けたりするのは、「恩を受けた」という記憶がすでに海馬を離れ、皮質内で遠隔化しているからかもしれません。 記憶形成とアップデートのメカニズム 記憶形成のメカニズム:分子・細胞認知学の展開

ストレスと記憶力

 近年行われた調査により、動物の記憶力にはストレスと言うものが多大なる悪影響を及ぼすことが確認されています。この事実は、犬にしつけを行う際に極めて重要です。
 2015年、韓国の研究チームは「オキシトシン」と呼ばれるホルモンの一種が、ストレスに起因する記憶力の低下を抑制するという効果を報告しました(→出典)。チームはまず、ラットに一定のストレスを与えると、記憶の固定化において重要な役割を果たす「長期増強」(LTP)が阻害されて抑うつ状態が長期化し、結果として空間に関する記憶力が低下するという現象を確認しました。次にラットを「ストレスのみ」と「ストレス+オキシトシン投与」というグループに分割し、双方の記憶力を比較しました。すると、同じストレスを与えられているにもかかわらず、オキシトシンを投与されたグループでは、「ストレスのみ」グループで見られたような記憶力の低下が観察されなかったと言います。また記憶の中枢である海馬内の「細胞外シグナル調節キナーゼ」(ERK)と呼ばれる物質を調べたところ、「ストレスのみ」グループでのみ変化が見られ、海馬におけるシナプス可塑性に影響を及ぼしていたとも。さらに「ストレス+オキシトシン投与」グループに対してオキシトシンレセプターを無効化する物質を投与したところ、記憶力が「ストレスのみ」グループと同じ程度まで低下したそうです。こうした事実から研究チームは、オキシトシンにはストレスによって引き起こされる記憶力の低下を妨げる効果があるとの結論に至りました。 オキシトシンの分子構造  「オキシトシン」は「愛情ホルモン」や「抱擁ホルモン」などと呼ばれ、グループ間の結束を強固にし、社会性を向上させる効果を持っているとされています。2014年に行われた調査では、人間と犬が見つめあうだけでこのホルモンの体内濃度が上昇することが確認されています(→出典)。しつけをする際、「アイコンタクト」を上手に盛り込みながらセッションを進めると、このホルモンが持つ抗ストレス効果により、犬の記憶がスムーズに形成されるという可能性は十分にあるでしょう。逆に、飼い主が短気を起こして「このバカ犬が!」などと怒鳴ってしまうと、犬がストレスを感じて教えられた内容が頭から抜け落ちてしまうという現象が起こり得ます。犬をしつける際は、まずストレスをかけないことが基本です。 犬のアイコンタクトのしつけ
 犬に対するストレスが最も少ないしつけ方は、「正の強化」と呼ばれる手法だと考えられます。2014年、フランス・北パリ大学の研究チームは、「正の強化」と「負の強化」が犬のストレスレベルに対して及ぼす影響を調査するため、 2つのドッグスクールにおいて比較を行いました(→出典)。「正の強化」とはご褒美を提示して行動頻度を高める手法(犬がお座りしたらおやつを与えるなど)で、「負の強化」とは罰を取り除くことで行動頻度を高める手法(犬がお座りしたら腰を押し付けていた手をどけるなど)です。「リードを付けて散歩する」と「お座り」という課題を設け、一方の学校では「正の強化」、もう一方の学校では「負の強化」でトレーニングを行ってもらい、犬が見せるストレスに関連したサインや飼い主に対する集中力を比較したところ、「負の強化」グループではストレスのサインが多く見出されたと言います。こうした事実から研究チームは、「正の強化」を主体としたしつけの方が、犬に対するストレスが少ないという結論に至りました。 犬のしつけはご褒美ベースで行わないとストレスがたまって非効率  犬に対するストレスを可能な限り軽減し、記憶力の低下を妨げてしつけの効果を最大限に高めるためには、「正の強化」によるご褒美ベースの訓練法が最適なようです。この方法は、今すぐにでも実行に移すことができるのではないでしょうか。 犬のしつけの基本理論
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