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犬にも人間と同じ感情がある?

 犬の都市伝説の一つである「犬にも人間と同じ感情がある」について真偽を解説します。果たして本当なのでしょうか?それとも嘘なのでしょうか?

伝説の出どころ

チャールズ・ダーウィンの顔写真  「犬にも人間と同じ感情がある」という都市伝説の出どころは、「種の起源」などの著作で有名な自然科学者チャールズ・ダーウィン(1809~1882年)だと考えられます。
 ダーウィンが登場する以前、人間は理性と言語を持った特別な存在で他の動物より優れているという考え方が大勢を占めていました。その極端な例がフランスの哲学者ルネ・デカルト(1596~1650年)の「動物機械論」です。彼の考え方では、動物とは精巧にできた機械であり、それ以上でもそれ以下でもないとされています。例えば、犬が尻尾を踏まれてキャンと泣き声を上げるのは、機械を落としてガチャンと音が鳴るのと同じといった感じです。
 このように、動物を極端に卑小な存在として扱う風潮があった中で、ダーウィンは人間と動物が同じ心理学的なクオリティーを共有していると信じていました。彼は犬や猿が愛情、同情、嫉妬、怒りといった明らかな表情を示しているとき、人間がこういった表情を示しているときに感じている心的な状態を共有しているのではないかと述べています。さらに、アリやハチが同情や怒りといった感情を表出しているとき、人間と同じ感情を抱いているとすら考えていたようです(「人の由来と性に関連した選択」, 1871年)。1872年に出版された「人と動物の感情の表現」の中では、彼が抱いていた動物に対する見方の一端を垣間見ることができます。 人と動物の感情の表現(1872), P50~51 敵意をむき出しにしたときの犬の様子(「人と動物の感情の表現」より)
 獰猛で敵意に満ちた心的状態で見知らぬ犬や人間に近づくとき、犬は体を起こして硬くし、頭をやや上げてしっぽを直立させる。被毛は総毛立ち、特に首筋と背中にかけてが顕著である。ぴんと立った耳は前方に向けられ、目はじっと相手を睨みつける。
好意を現した時の犬の様子(「人と動物の感情の表現」より)
 相手が見知らぬ人間ではなく自分の飼い主であることが分かった瞬間を考えてみよう。犬の様相は瞬時にして完全に変化する。高く掲げられていた体は低く沈められ、しゃがみこんでしまうことさえある。しっぽは低く下げられて左右に大きく振られる。被毛は一瞬にして平坦になり、耳は後方にたたまれるが頭に付く程では無い。唇はゆるく開かれる。耳を後方に引きつけたため、まぶたは細長くなり、瞳からは睨む目つきが消える。こうした時の動物は、喜びから興奮した状態にあるという点は付け加えておくべきだろう。
ジョージ・ロマーニズの顔写真  ダーウィンに引き続き、人間と動物の心理が同じであるという考えを信奉したのが、カナダ生まれの若い進化生物学者でダーウィンの弟子でもあるジョージ・ロマーニズ(1848~1894年)です。彼は著書「動物の知能」(1881年)の中で「犬は日常的な感情面において高度に発達しており、この点では確かに他のどんな動物より勝っている。犬はプライド、尊厳、自尊心、 公正さ、そしてもちろん嫉妬といった感情を全て備えている」と述べ、犬と人間が同じ感情を共有しているという信念を公にしました。
 その後、科学界においてはダーウィンやロマーニズの擬人化を否定するような流れが主流になっていきます。その先駆者はイギリスの作家C.ロイド・モーガン(1852~1936年)です。彼は著書「動物の生態と知能」(1891年)の中で、動物の知能に関する進化論の主張がいかに脆弱な根拠に基づいているかを明らかにしました。例えばロマーニズが披露したエピソードの1つ「フォックステリアは外出したいときはいつでも後頭部を使って掛け金を持ち上げた。すると門はぱっと開いた」をモーガン流に解釈すると、「門の隙間から外を見ていた犬は偶然掛け金に頭をぶつけあっという間に自由の身となった。それは単に運が良かっただけで洞察力とは何の関係もない」となります。こうした彼の冷徹な態度はいつしか「モーガンの公準」と呼ばれ、不用意な擬人化主義に対する警告としての役割を担うようになっていきました。
モーガンの公準
 動物の行動がより低次の心的プロセスによって解釈できる場合、決してより高いレベルの心的プロセスによって解釈してはならない。
 モーガンの登場以来、ダーウィンによって自明の理とされていた「動物の感情」というものが科学の分野から排除されていきました。この流れはアメリカの心理学者エドワード・ソーンダイク(1874~1949年)、ジョン・ワトソン(1878~1958年)などによってさらに強められ、動物に感情を認める擬人化は完全に抹殺されてしまいます。
 このように科学の分野において擬人化はタブー視されていきましたが、ダーウィンが残した「動物を人間と同等視する」という基本姿勢は、現代にも連綿と受け継がれているようです。その具体例は、「人語を解する犬が登場するディズニーアニメ」、「犬に赤ちゃん言葉で話しかける飼い主」、「犬のお誕生パーティー」などの中に垣間見ることができます。ひょっとすると「犬にも人間と同じ感情がある」という考え方は、ダーウィンが作り出したと言うよりは、人間の中にそもそも備わっており、ダーウィンが先駆者だったというだけかもしれません。 犬が私たちをパートナーに選んだわけ What are Animals? Why Anthropomorphism is Still Not a Scientific Approach to Behavior

伝説の検証

 かつてダーウィンやロマーニズが当然のものと見なし、また現代の愛犬家がその存在を疑わない「動物の感情」というものは、本当に犬の中にあるのでしょうか?以下では、犬と人間との間に共通していると思われる感情と、共通していないと思われる感情に分けて概説します。

犬と人間の共通感情

 犬と人間を含む哺乳動物の脳は、内側に位置する古い脳である「大脳辺縁系」(だいのうへんえんけい)と、外側に位置する新しい脳である「大脳新皮質」(だいのうしんひしつ)から構成されています。このうち「大脳辺縁系」を動物間で比較したところ、様々な哺乳動物の脳内で同じタイプの神経回路と神経伝達物質が確認されました。アメリカの神経科学者ヤーク・パンクセップ博士は、この共通構造を「感情回路」と名付け、以下の7つに分類しています。 The Archaeology of Mind 人間の脳における大脳新皮質と大脳辺縁系の位置関係
7つの感情回路・目次

探索システム

 「探索システム」(SEEKING)とは、自分にとって有利な資源を環境の中から探し出そうとするときに活性化する神経回路です。例えば「窓から見える景色をずっと眺めている猫」、「散歩の途中で木の根元をしきりに嗅ぎたがる犬」、「旅行代理店で海外旅行のパンフレットを見比べる人間」などにおいて活性化されていると考えられます。
 探索システムの脳科学的な構造は「腹側被蓋野」(VTA)、「内側前脳束+外側視床下部」(MFB-LH)、「側坐核」、「前頭前皮質」、「中脳辺縁系+中脳皮質のドーパミン回路」だと考えられています。探索システムを刺激する要因は、インスリン様成長因子1(IGF-1)、ドーパミン、GABAニューロンの抑制などです。上記したような脳の部位は、動物が食物を探しているときに活性化されるものの、食物を見つけて空腹を満たすや否や鎮静化するそうです。このことから探索システムは、報酬そのものよりも「報酬を得られるかもしれない」という期待によって活性化されると考えられています。人間を例にとると「修学旅行の前日」の気分に近いのかもしれません。 探索システムの脳科学的な構造  探索システムは資源を探したいという欲求を生み出すのみならず、独特な多幸感も生み出します。この事実は、探索システムに関連した脳の部位に電極を埋め込まれた動物が、自発的にスイッチを押して電気刺激を求めるようになるということからも明らかです。探索システムが満たされないままシャットダウンされると怒りシステムが起動し、これが慢性化すると動物は希望を失ってうつ状態に陥り、倦怠感と無気力に襲われます。逆に探索システムが過剰に活性化されると、病的な反復行動や儀礼的な行動が増加し、統合失調症や誇大妄想狂といった精神疾患に発展することもあります。
 探索システムの活性化は学習とも深い関わり合いがあります。システムが発動すると動物は新しい場所を探し求め、外部からの刺激に対して注意を払うようになり、結果として学習が促進されます。人間の創作活動は、脳内で高度な情報処理を行う大脳新皮質が大脳辺縁系の探索システムからエネルギーを受け取ることで促されると考えられています。

怒りシステム

 「怒りシステム」(RAGE)とは、自分に不快感を与える刺激を身の回りから排除しようとするときに活性化するシステムです。刺激には「暑さや寒さ」といった外的なもののほか、「空腹や喉の渇き」といった内的なものもあります。暑い日やお腹が空いてる時にイライラしてしまうのはこのためでしょう。
 怒りシステムの脳科学的な構造は、「扁桃体」、「分界条床核」、「視床下部内側野」、「中脳水道灰白質」(PAG)などで、特に「PAG」が重要だと考えられています。また怒りを生みだす化学物質としてはテストステロン、サブスタンスP、ノルエピネフリン、グルタマト、アセチルコリン、一酸化窒素合成酵素などが知られています。逆に怒りシステムを鎮静化する物質としては「GABA」がありますが、この物質は怒りのみならず他のシステムも同時に鎮静化してしまうようです。
 男性ホルモンの一種「テストステロン」は攻撃行動を促進する一方、女性ホルモンの一種「エストロゲン」や「プロゲステロン」、およびこれらのホルモンによって分泌が促される「オキシトシン」は攻撃行動を抑制する働きを持っています。男性と女性における怒りっぽさの違いを生み出しているのは、体内におけるホルモン濃度だと考えられています。
 「怒り」と「捕食の際の攻撃性」、「社会的優位性に対する願望」などは一緒くたにされることが多いものの、これらは別物です。「捕食の際の攻撃性」は怒りシステムよりも探索システムによって促進され、「社会的優位性に対する願望」は後述する「情欲システム」によって促進されていると考えられています。
 怒りシステムが動物にとって不快である事は明白です。証拠としては、怒りを覚えた人間が「不愉快である」と明言しているという事実や、電気刺激によって怒りシステムを活性化された動物が、その場から逃げ出そうとする事実などが挙げられます。

恐怖システム

 「恐怖システム」(FEAR)とは、自分に危害をもたらす刺激から遠ざかろうとするときに活性化するシステムのことです。ラットを例にとると、「身体的な痛み」、「猫の匂い」、「明るい場所や開けた場所」、「突然の動きや大きな物音」などが挙げられます。
 恐怖システムに電極を埋め込まれた動物が、スイッチによっていつでも切れる状態に置かれると、すぐさまそのスイッチを押そうとするといいます。この事実から、恐怖システムは動物に不快感をもたらすと考えられています。
 恐怖システムが発動したラットでは食事、グルーミング、性行動、その他楽しい行動に関わろうとする意欲が失われるそうです。遊び行動が動物の福祉を図る際の指標として用いられるのはこのためです。
 生体アミンと呼ばれる化学物質は、自律神経系を活性化し、怒りシステムや恐怖システムが統合されて起こる「逃走-闘争反応」を引き起こすことが分かっています。逆に恐怖システムを鎮静化する物質としては、神経伝達物質の1つ「セロトニン」が知られています。しかしその詳細なメカニズムに関してはまだよくわかっていません。
 恐怖システムの中枢は扁桃体であると考えられています。扁桃体が壊れてしまった動物の性格がおとなしくなるのは、恐怖の感覚が麻痺してしまうからだと考えられます。一方、未来の恐怖を予見して感じる不安感には、PAGや視床下部も関わっているようです。
 扁桃体の中央部で発生する恐怖システムは学習が起こるために極めて重要です。グルタミン酸作動性の伝達を促進して学習反応につながっていると想定されていますが、詳しいメカニズムに関してはよくわかっていません。ただ恐怖と連動した情報の方が、連動していない情報よりも素早く思い出せるようになることは、私たち誰もが知っている事実です。例えば中学生時代、一番怖かった先生の顔を思い出してみましょう。

情欲システム

 「情欲システム」(LUST)とは、異性のパートナーを見つけようとするときに活性化するシステムのことです。
 男性では視床下部前部が性の中枢で、下垂体から分泌されたホルモンが男性ホルモンである「テストステロン」の分泌を促し、「バソプレシン」の産生を仲介して男性的な行動を生み出すと考えられています。男性的な行動とは、ライバルとなりうる他の男性に対する攻撃性や社会的優位に対する執着などです。こうした行動は意中の女性を手に入れるために役立つものと考えられます。
 一方、女性では視床下部腹内側部が性の中枢で、下垂体から分泌されたホルモンが女性ホルモンである「エストロゲン」と「プロゲステロン」の分泌を促し、「オキシトシン」の振る舞いに影響を及ぼすことで女性的な行動を生み出すと考えられています。女性的な行動とは、子供を愛情深く可愛がったり、外敵に対して勇敢に立ち向かうなどです。こうした行動は子どもの生存確率を高めるために役立つものと考えられます。
 ラットの情欲中枢である視索前野にテストステロンを注入すると、テストステロンを得ることができる場所を好み、何度でもそこを訪れるようになるといいます。このことから情欲システムは動物に対して快感をもたらすと考えられます。ひょっとすると、男性が恋に陥っている時のふわふわとした多幸感は、情欲システムを介して生み出されているのかもしれません。
 情欲システムが満たされていないオスの動物は、欲求不満からさまざまな攻撃行動に走ることがあります。しかし動物が性的に成熟する前に睾丸を取り除いてしまうと、たとえテストステロンを注入したとしても強い性的な衝動を覚えなくなるそうです。この事実は、オス犬に対して早期に去勢手術をほどこすことが、情欲ストレスの軽減につながることの証拠と言えます。

養育システム

 「養育システム」(CARE)とは、幼い子供をいつくしんで世話をしようとするときに活性化するシステムのことです。
 動物の養育システムを発動する際に決定的に重要となるのが「オキシトシン」と呼ばれるホルモンです。オキシトシンを投与された人では向社会的になって攻撃性が減弱し、より人を信用しやすくなり、総じて行動や社会的事象に関わる際に自信を持つようになるといいます。このホルモンが口語的に「愛情ホルモン」や「抱擁ホルモン」と呼ばれている理由は、上記したような変化が子供を育てる時に効果を発揮するからでしょう。
 オキシトシンは女性ホルモンであるエストロゲンやプロゲステロンによって産生が促されるため、必然的に男性よりも女性の体内で高濃度に存在しています。しかしオキシトシンの産生に関わる遺伝子を操作されたラットでもやはり母性的な行動が見られることから、このホルモン以外にも何らかの物質が関わっているものと推測されています。一方、男性の体内にもオキシトシンは存在していますが、養育行動を打ち消すように作用するテストステロンを併せ持っているためその効果は薄く、時として「子殺し」(infanticide)のような極端な行動に走ることすらあります。
 養育システムが発動したときに感ずるポジティブな感覚を生み出しているのは、ドーパミン、オキシトシン、プロラクチンといった数々の神経伝達物質やホルモンです。特にオキシトシンは快感をもたらすオピエイトの感受性を高め、少量のオピエイトでも長期的な効果をもたらすよう作用します。
 母親からの十分な養育を受けなかった動物は感情的に弱くなりストレスに満ちたイベントに遭遇した時より傷つきやすくなるといいます。こうした事実から、動物の社会的な性格は幼少期においてどの程度オキシトシンやバソプレシンの遺伝的な発現が影響を受けたかによって決定されると推論されています。

悲哀システム

 「悲哀システム」(GRIEF)とは、社会的繋がりを失って孤立したときに活性化するシステムのことです。保護者を失った動物の幼獣がパニックに陥り、甲高い声で泣きわめいているときに活性化する脳部位と同じ場所で発生することから、「パニック・悲哀システム」とも呼ばれます。
 悲哀システムは成長とともに鈍感になっていきますが、たとえ大人になったとしても完全に消え去るわけではありません。例えば、親しい家族を失った時や恋人と別れた後に感ずる悲しさは、赤ちゃんの頃、母親の姿が見えなくなった時に感じていたパニックや悲哀の名残だと考えられます。また煙草よりも社会的孤立感の方が健康に悪いと言われる理由は、社会とのつながりを失った大人の脳内で悲哀システムが活性化され、その人に慢性的なストレスを与えるからだと考えられます。
 一方、社会的孤立から解放されたときに感じる心地よさは愛情の原初的な本質だと考えられています。サルがお互いをグルーミングしたり、腹部をマッサージされたラットでオキシトシンが大量に分泌されたり、群れからはぐれたヒヨコが人間に抱かれるとすぐに鎮静化して目を閉じたりするのは、全て分離や孤立の苦しみから解放され、社会的なつながりを取り戻したことを喜んでいる証拠だと考えられます。

遊びシステム

 「遊びシステム」(PLAY)とは、動物が無目的な遊び行動に勤しんでいるときに活性化するシステムのことです。
 遊びシステムに関する脳の領域は特定されていませんが、束傍核へのダメージが遊び行動を減らすことから、遊び中枢は原始的な大脳辺縁系に存在していると推測されています。また前頭葉や脳梁に障害を受けると遊び行動が増えることから、これらの部位は遊び行動に対して抑制的に働いていると考えられています。
 遊び行動を誘発して継続させる際、最も重要な感覚は触覚です。遊びに夢中になっている動物の多くで、くんずほぐれつのレスリングや取っ組み合いが多く観察される理由は、こうした行動がお互いの触覚を強く刺激するからだと考えられます。人間の皮膚にもくすぐったい場所がありますが、不思議なことにこの場所を自分で触ってもくすぐったさは生じません。他人に触られて初めてくすぐったいっという感覚が生じる理由は、こうした部位が他人との接触を促進するという役割を持っているからでしょう。
 恐怖システムが発動したラットでは遊び誘発行動や遊び行動が顕著に減少し、長い間離れ離れになっていたサルたちが再会を果たすと、まずは抱き合ってお互いの社会的つながりを確認し、その後でようやく遊び行動が始まるといいます。こうしたことから、遊び行動は動物が安心と安全を確信しているときだけに起こる福祉の目安とされています。遊び行動に伴って分泌されるドーパミンやIGF-1といった物質は、動物に陶酔感をもたらし、遊び行動をさらに促進します。
 遊びの役割は多様です。幼少期において、たくさんの遊び行動に勤しんだ動物は、後の繁殖機会において優位な立場に立つといいます。また遊び行動は、夢を見るのと同じように、脳内において情報を統合するという役割を果たしているという可能性も検討されています。中でも重要と考えられるのは、遊びが脳に関連した遺伝子に作用し、結果として脳の成長や成熟、そして向社会的な神経回路を形成するという側面です。ラットにおける実験では、毎日の豊富な遊び行動は、成熟してからの衝動的な行動、攻撃性、防衛心を減らすことが確認されています。また人間の幼少期における社会的つながりの欠落と遊び行動の不足は、大人になってからの怒りっぽさや攻撃性につながるとも。「ペットが子供の情操教育になる」と言われる根拠は、家庭にペットがいると子供の遊び衝動を満たしてあげやすいことにあるのかもしれません。

犬と人間の非共通感情

 カナダ・ブリティッシュコロンビア大学の心理学者スタンレー・コレン氏は、著書「犬と人の生物学」(築地書館, P55)の中で「犬には人間と同じ感情があるか?」というテーマについて論じています。彼によると、神経の構造や化学的な性質が犬と人間は同じなのだから、犬にもまた私たちのものと似た感情があると考えるのは理にかなっているとのこと。具体的には、人間の赤ちゃんが産まれてから5歳になるまでの間に獲得する感情(下図)のうち、2歳から2歳半までの間に含まれる感情程度なら共有しているのではないかと推測しています。 人間の赤ちゃんが産まれてから5歳になるまでの間に獲得する感情の一覧図  「2歳から2歳半」という境界線の根拠は、コレン氏が以前に行った犬の知能テストにあるようです。彼は幼い子供たちの言語とコミュニケーション能力を査定するための「マッカーサー乳幼児言語発達質問紙」を犬用にアレンジし、言葉や身振りに関する事前訓練を受けていない普通のペット犬を対象とした調査を行いました。その結果、犬には2歳~2歳半の人間の子供と同程度の知能があることがわかったといいます。もし彼が言う通り、知能の限界と感情の限界が同一で、犬が人間の2歳児程度の知能と感情を持っているのだとすると、犬には以下に述べるような感情があることになります。これらはパンクセップ博士が言うところの「7つの感情回路」と大部分で重なります。
犬と人間の共通感情
  • 興奮・覚醒
  • 苦痛・苦しみ
  • 快感・満足
  • 嫌悪
  • 恐れ
  • 怒り
  • 喜び
  • 疑い・はにかみ
  • 好意・愛情
 また同時に、人間が2歳半以降に獲得する「恥」、「自尊心・プライド」、「罪悪感」、「軽蔑」といったやや複雑な感情に関しては持っていないということになります。

伝説の結論

 パンクセップ博士の研究を始めとする最新の脳科学に関する知見などから考えると、生命や繁殖に関わる極めて根源的な感情や情動は、犬と人間との間に共通していると言ってよいようです。ですから「犬にも人間と同じ感情がある」という都市伝説は半分まで本当となります。犬に「喜び」の感情がなければ「笑顔」の説明はつきませんし、「悲しい」という感情がなければ「憂うつ顔」の説明がつきません。喜怒哀楽を行った基本的な感情に関しては、犬も人間も同等に持っていると公言しても、「擬人化だ!」と目くじらを立てて怒ってくる人はいないでしょう。 犬が見せる笑顔と落ち込んだ表情  一方、少々怒られる可能性があるのは、犬に「恥」、「自尊心・プライド」、「罪悪感」、「軽蔑」などの自己意識的感情もあるとする考え方です。犬が見せる反省顔は飼い主に怒られそうという雰囲気を察して見せているに過ぎない例えば近年の研究により、犬の飼い主の間で長らく「あるあるネタ」として語り継がれてきた「犬の反省顔」が、実はガセネタであることが指摘されました。シュンとした犬の顔は、悪いことをしたことに対する罪悪感の証拠でもなんでもなく、ただ単に飼い主が発する負のオーラを感じ取った犬が恐れをなして縮こまっている状態だとのこと。このテーマに関しては「犬も反省する?」で詳しく解説しています。またパンクセップ博士は、より複雑で社会的な感情を経験できるのは、大脳新皮質が十分に発達した人間、霊長類、ゾウ、クジラ、イルカといった動物だけだろうと述べています。こうした知見から考えると、犬は人間が持っているのと全く同じ感情の幅を持っていると考えるのは、いささか先走りすぎのようです。ですからアニマルコミュニケーターが「この子は変な洋服を着せられて恥ずかしがっている」と言った場合、「それはあなたの感想でしょ?」と突っ込まれることになります。

これまでの研究手法

 動物にある特定の感情があるかどうかを証明する際は、これまで動物の行動を観察するという手法がメインでした。具体例としては、2014年にカリフォルニア・サン・ディエゴ大学の研究チームが行った「犬の嫉妬心」に関する実験が挙げられます(→出典)。内容は、飼い主が「おもちゃの犬」、「ハロウィンのカボチャ」、「飛び出す絵本」と楽しげに遊んでいるとき、犬がどのようなリアクションを見せるかを観察するというものです。その結果、カボチャや絵本といった無生物に対するリアクションは薄かったものの、飼い主が犬のおもちゃと戯れているときだけは、「噛み付こうとする」、「間に割り込む」、「おもちゃや飼い主を押す」といった行動を高頻度で見せたとのこと。こうした事実から研究者たちは、人間の幼児が見せるのと同様の嫉妬心が、犬の中にもあるのかもしれないという結論に至りました。 ブリッジスが1932年に提唱した「情緒の分化系統樹」によると、人間の赤ちゃんに嫉妬心が芽生えるのは生後16~17ヶ月頃とされている

これからの研究手法

 上記したような行動観察は正攻法ではありますが、犬が見せた行動が嫉妬心に起因するものなのかどうかは疑問が残るところでしょう。一方、これから主流になっていくと考えられるのが脳科学を用いた手法です。具体例としては、2004年にアカゲザルを対象とした嫉妬心の実験が挙げられます。内容は、支配的な立場にあるオスのアカゲザルに対して、交配相手となるメスザルがライバルのオスザルと一緒にいる場面を見せ、「PET」と呼ばれる機器を用いて脳内にどのような変化が起こるかを観察するというものです。調査の結果、嫉妬心を喚起するような状況においてテストステロンの上昇を記録したオスザルでは、アンドロゲンレセプターを多く含む「中脳水道周囲灰白質」(PAG)と呼ばれる部位が活性化し、より多くの攻撃行動を見せたと言います。また警戒心と関連した「右上側頭溝」や、不安と関連した「右扁桃体」といった部位にも活性化が見られたそうです(→出典)。
 似たような実験は、人間を対象としても行われています。2006年に日本の研究チームが行った実験では、脳内の活動をリアルタイムでモニターできる「fMRI」と呼ばれる機器を用い、嫉妬心を抱いた時に活性化される脳の部位が観察されました。その結果、嫉妬心を起こすような状況に遭遇した時、男性では性行動や攻撃行動に関係した「扁桃体」や「視床下部」といった部位が活性化したのに対し、女性では全く別の「上側頭溝後部」が活性化したといいます。こうした事実から研究チームは、男性と女性とでは嫉妬心に関する脳内の神経モジュールが異なるという可能性を突き止めました(→出典)。 麻酔を用いず覚醒状態でfMRIに入って脳をモニターされる犬  このように、行動の観察だけでは証明することが難しい複雑な感情も、脳科学の力を借りて人間と動物の脳内を比較すれば、より効率的に研究が進むかもしれません。現に2012年、エモリー大学のグレゴリー・バーンズ氏は、覚醒状態にある犬を「fMRI」に入れ「ワクワク感」に関連した脳の部位が、人間と同じ尾状核であることを特定しています(→詳細)。テスト状況をうまく設定してやれば「嫉妬心」、「自尊心」、「恥ずかしさ」といった高次の感情が、犬に備わっているかどうかも少しずつ明らかになっていくでしょう。